浄化したあとの「期待」とは?
浄化したあとの期待の観念について、このようなコメントがありました。
観念浄化後の何かを期待するって、人生の映像の変化を期待するわけですから、
大いに期待してもいいのでは?
そこのところちょっとこんがらがっていますので教えてください。
ごもっともな質問です。
このコメントを見たとき、ああ、ごもっともな質問だなあ、なるほどなあと、
頭の中を整理するきっかけを与えてくれました。
まず、前提として言葉というものは同じ言葉なのに、一人一人それぞれ
受け止める意味が違ってくる不思議なものです。
ですので、この場合の「期待」の意味をよく噛みしめて整理していきたいと思います。
私の考える「期待」の意味は、『結果』に対する期待のことです。
コメントに人生の映像の変化を期待するわけですから、大いに期待してもいいのでは?
と書いてありました。
はい、もちろん大いに期待してもいいんです。
ですが、結果にこだわったり、執着したら観念になってしまいます。
期待してもいいが、結果に執着してはいけない。
そういう意味です。
これは私の説明不足でした。ごめんなさい。
例えば、「私は絶対に豊かになれる!」と宣言したとします。
すると、「ほんとにそうかなあ?」「いや、私には無理でしょう」とか観念が
芽生えてきます。
それらの観念をほったらかしにして、そのまま豊かになろうとすると結果に
こだわってしまうことになります。
つまり、自分さえ豊かになればそれでいいんだ。
他の人の豊かなんて知ったことではない。
と手段を問わない道をまっしぐらに突き進もうとします。
結果に執着したゆえに、自分さえよければOKという道しか見えないのです。
これと同じように、浄化したあと絶対にいいことはある、と結果に期待すぎる
というのはもう言うまでもなく執着そのものです。
執着も観念ですから、それを見つけるために浄化した後も自分の中で
結果にこだわっていないだろうか?
と問いかけるのもいい方法だと思います。
以上です。
私の考える期待とは「結果」に対する期待の意味が
少しでも伝わってくれたら幸いです。
結果ではなく、過程を楽しむ。
そういう意味の期待なら、大いにしてもOKだと思います。
ご質問ありがとうございました。
言葉に対する認識というものを学ばせていただきました。
どうもありがとう。
また他に質問があったらいつでもしてくださいね。